
ここは南太田第二踏切。

第一踏切は?ありません。除却済みで欠番になっています。

除却前はどこにあったのでしょうか?終戦直後、1947年の空中写真を遡ってみましょう。あれ~?おかしいね辺り一帯焦土になってるね
線路と交差している白い道が踏切です。計5ヶ所の踏切があったことが分かります。南太田駅の東に構内踏切がありますし、第一踏切の他にいわゆる「第ゼロ踏切」「第マイナス一踏切」もありますよね。つまり今の第二踏切は、昔でいうと第三踏切?だったということになります。もし今も遺構が残っていたら是非見てみたい。
こういう感じで今回は今は無き踏切を巡り、その遺構を探して行きます。
まあネタバレすると痕跡が見付けられず空振りした踏切も多いのですが……。「実はここに跡が残ってるんですよ~」と思われた方、ネットで本記事を晒してご指摘いただければ後で見に行くかもしれません。
調べ方
- 国土地理院の電子国土Web、或いは自治体が公開している古地図等で今はない踏切を探す
- 出来るだけ除却年月を特定する
- その場所に行って遺構を探す(割とビビりなので引き返すこともありますスミマセン)
因みに横浜市が公開している横浜市三千分一地形図画像、これ昭和初期の地図が高画質で見られてめちゃくちゃ有用なんですけど、勝手にWebにアップするのは禁止にされてて記事に貼れないんですよねえ。なので調査には使いますが、記事に載せるのは他の資料で代用します。
尚上で示したように、今の「第N踏切」は昔の踏切を数えると数字が合わなくなることがあるので、記事内の踏切は「南太田①」という風に区別します。
横浜~南太田
殆どの区間が高架で古地図を見ても踏切跡が見当たらなかったのでいきなりですが省略です。
南太田~井土ヶ谷

南太田①
除却年月:1949/2/28~1956/3/13

構内踏切です。後から待避線が出来てて原形が残っていません。初っ端から空振り。

南太田②
除却年月:1963/6/26~1967/5/16

常照寺境内(上図北部)と今の南太田変電所(北西部)に繋がる踏切でした。踏切の北側から道が二手に分かれています。今はホームが延長されて埋もれしまっていますが、道の痕跡があるかも知れません。
常照寺から

駅のすぐ下に門(山門)があります。

上りホームと寺の石段がぶつかる部分です。白い部分だけ積まれ方が違うのは、待避線を設置した際に一部削ったためでしょうか?寺の最後の増改築は1982年、待避線の設置はその後1987年なのでそうかも。40年前にしては石壁の見た目が新しいのが気になりますが。

踏切のあった場所へ向かうには、階段を昇って左手のこの道を通り抜けないといけません。この先には樹木葬の墓地があります。これは入ったらマズい気がしたので諦め。
変電所から

向かう途中で700形っぽい看板を発見。K Kyu Lineとは……

道が続いています。横浜市三千分一地形図画像によると、かつてここから現変電所をぐるっと回って線路側に降りる道がありました。ここを抜ければ踏切に行けたんでしょうな。奥へ進んでみます。

行き止まりでした💩ちょっと不作ですね……せめて何かしら他に痕跡が見つかれば良かったのですが。アシナガバチもいたのでこれ以上は進みたくないです。この先が気になる方は虫除け持ってご自分でどうぞ。
南太田③
除却年月:1956/3/10~1961/8/26
②と同様今の南太田変電所から道が続いていました。

変電所から

この先に踏切に至る道があったはずですが送電鉄塔に塞がれて進めず。こうなるとゲームオーバーです。残念!

一応南側からも攻めてみましたが、駐輪場になっていて跡形もありませんでした。
南太田④(南太田第二踏切)
現南太田第二踏切です(それはそう)。

南太田⑤
除却年月:1963/6/26~1967/5/16

南側から
なんと線路に至る途切れた階段がありました。



これはビンゴ。踏切があった頃はこの階段が使われていたことになります。

そして柵の向こうに看板が。「サクをのりこえるな ゴミをすてるな 京浜急行」会社が市民に向かって命令形を使うところに時代を感じます。でも今だって客相手にこの位言いたくなることってあるよねえ。柵に看板と同じ大きさの跡が残っているので昔はきちんと掲示されていたのでしょう。

地図上で踏切道はここから北西に向かっていました。その方角を向くと、石の積み方が周囲と異なり、かつ平坦になっている怪しい部分があります。次はここに行ってみましょう。
北側から

反対側に回り、先程の階段があった方を向いています。柵の下のコンクリが2ヶ所不自然に窪んでいますね。

下を覗くとマンホールがありました。あれ?石階段じゃないのか…。とすると足元2ヶ所の窪みは鉄骨階段か何かを固定していた跡と推測できます。これは収穫ですね。いいぞ~
井土ヶ谷~弘明寺

調査する踏切跡は4ヶ所です。
井土ヶ谷①
除却年月:1953/3


当初は構内踏切がありましたが地下道が掘られて廃止されたそうです。ホーム上から目視しても痕跡は確認できず。代わりと言ってはなんですが1500形を写しました。ちょっと昔はエア急に乗ろうとして6両のコイツが来るとがっかりしたもんですが、廃車が出始めてからは名残惜しい気分です。ホント都合がいいですよね自分。
井土ヶ谷②
除却年月:1967/5/16~1972/12/22

北側から
弘明寺から徒歩で来ました。暑過ぎ

謎の下り階段を発見。


降りると草だらけの空間に出ました。

左の手すりが線路に向かって折れているのが分かりますか?つまりここが昔踏切だったという確証が得られました。ウオオ

弘明寺方を向くと道が続いているように見えます。が、流石に草が多すぎるので諦め。
南側から

細い路地に入っていきます。エスペラント博物館がありますけど見た目普通の家ですね

行き止まりです。しかし不自然な傾斜があります。

柵の傍に白い看板のような物も落ちています。これはもしや?

やはり「サクを乗り越えるな ゴミをすてるな 京浜急行」の看板がここにもありました。ここから線路を渡れた時期があったんですねえ。ここから線路の反対側に行くにはガード下を潜るために400m程迂回しなければならないのでもし渡れたらまあまあ便利かも。でも線路の見通しが悪いので、運悪く線路上で躓いたと同時に突然電車がやってきたら嫌ですね(死)。
井土ヶ谷③④
除却年月:1967/05/16~1978/01/31

線路を横切っているかは微妙ですが盛土に白い道があります。先にネタばらしすると北側の③だけ痕跡を確認出来ました。
西側から

行き止まりで例の看板を発見。またお前か。

井土ヶ谷④の踏切は写真に向かって右側なんですが、民家の敷地に入らないといけないので断念。
東側から

先程と反対側に来ました。コンクリの坂道が石塀で潰されています。これも”””痕跡”””でしょう。でもこの急斜面を昇るの大変じゃない?
井土ヶ谷⑤(井土ヶ谷第一踏切)
画像省略です。人が多くてモザイクでぐちゃぐちゃになるので……
弘明寺~上大岡

弘明寺①
除却年月:1969/10

弘明寺は跨線橋設置と橋上駅舎化がそれぞれ別の時期に行われました。構内踏切は跨線橋を設置した際に廃止されています。

GoogleEarthで見た今の写真と重ねてみました。現駅舎の階段付近にあったようです。

構内踏切のあった位置に黄色い線を引いてみました。つまりこういう事ですね。
弘明寺②
除却年月:1956/03/10~1963/07/08

これも構内踏切っぽい?でも一つの駅に二つも付けたりしますかね?架線柱かと思いましたがくっきり白色なので踏切ではありそう。ホーム延伸に伴い埋もれたようです。

概ねこの辺です。上りホームを撮影しています。石段の積み方が左右で異なっていて境目付近に空間がありますね。立っている下りホームの足下にも同様の空間が開いてました。これが構内踏切跡かな……?いや違うかも……

駅を出て東側から。かつての入口だったように見えなくもないが。これもうわかんねぇな
弘明寺③
除却年月:1956/03/10~1963/07/08

南側の跨線橋から更に20m程南にあったようです。

何か見えそうですか?私には見えません。
弘明寺④⑤⑥
ここも痕跡が無かったのでサクッと行っちゃいます。昔の空中写真も載せるのでこういう感じか~と眺めてみてください。
この区間は1988/11/13に高架化が完了し3ヶ所の踏切が除却されました。この工事に関する論文を見付けたので土木に自信のある方は読んでみてください↓。工事は既存線路の山側に仮線を2本作って進めたらしいです。
永田・森・有薗・酒井:偏土圧を受ける2重締切土留め工の計測結果およびその挙動解析, 土木学会論文集 No. 436/III-16, pp.83-92, 1991.9
④弘明寺第一踏切
写真ガビガビ過ぎだろ!と思った方、これ本当は3倍美麗なのがあるんですけど規約で貼れないんです。3倍写真は利用者登録(タダ)しさえすればここから「オンライン閲覧所で閲覧」を押して閲覧できるので是非覗いてみてください。面白いですよ。


⑤弘明寺第二踏切


⑥弘明寺第三踏切


一旦ここで終了です。お疲れ様でした。
勝手踏切の存在
数えに入れると今と番号が合わない踏切が何ヶ所もありましたよね。井土ヶ谷②③④とか。それらは勝手踏切と推測できます。
例えばもし井土ヶ谷②③④が正式な踏切なら、弘明寺駅前に現存する井土ヶ谷第一踏切は第四踏切となっているはずなのでおかしい。踏切の数字は品川方から連番で付けられ、除却されると欠番になります。「除却後に付番された」これもない。「運転関係教材 京浜鶴見駅(1962)」では既に踏切に対して番号付けがされています。
よって番号が合わない原因になっていた踏切は勝手踏切だったと言えます。更に今回紹介した踏切は1960年頃に一斉に除却されており、かつその頃には
- 踏切道改良促進法の制定(1961年)
- 八丁畷-京浜川崎間で勝手踏切を渡ったことによる人身事故、及び周辺住民の暴動(1963年)
朝日新聞・読売新聞昭和38年11月28日朝刊 - 『(昭和30年頃から)自動踏切遮断機や踏切警報機等の設置による格上げや、踏切除却のための道路の地下道化、跨線橋の設備も随所に行い~』(京浜急行電鉄 最近10年の歩み 昭和43年(1968)から引用)
といった踏切を巡る法令の変化や事件事故が起こり、同時に京急の踏切安全対策が行われています。従ってこの期間に多くの勝手踏切を塞いで「サクをのりこえるな」と強めの看板を付けたことが伺えます。でも仮に今でも渡れたとして、見通しの悪い線路を遮断機も警報機も無い状態で渡りたくはないですね。昔は電車が遅かったのでかわせたんでしょうか。
憶測はこの位にして。
こんな感じで横浜~上大岡間の踏切跡を巡ってみましたが、当時の痕跡を眺めて色々調べたり、昔の景色に想像を巡らしたりするのも面白いですね。跡形も無くなっていると少し残念ですが……。気が向いたら他の区間の踏切跡も探したいと思います。
